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地理部山口合宿レポート2日目
地理部 2022-09-16
2日目の目的は雑に言うと「現地で石灰岩地形に触れ合う」ことと「石炭の地元での距離を感じる」ことですかね。今回の合宿の目玉でもあり明日のUBE工場見学への導入でもある大事な日でした。
景清洞(かげきよどう)
7:30ごろにはチャーターしたバスに乗って景清洞の方へ向かいました。平家の滅亡を決定づけた、壇ノ浦の戦いの後、敗れた平景清がこの洞窟で隠れ潜んだというのが由来です。
道中の景色は、ほとんどが両面に山、時々集落の繰り返しでした。
山についてですが、山は200mほどのものがポコポコと存在するのが山口県の左半分の特徴です。大きな石灰岩で覆われていたのがガンガン削られていった結果ですね。山口県は海岸線が険しかったり等高線ががたがたしていたりしますが、これは石灰岩が水に溶けやすく崩れやすいのが原因です。景清洞もこの石灰岩のせいで開いちゃった穴です。酸性の水(雨水)に溶かされた石灰岩の部分だけが空洞となり、ぽっかり空洞になったタイプの洞窟ですね(このタイプを鍾乳洞といいます)。天井は5mほどで1㎞前後歩きました。
景清洞は僕の想像していた鍾乳洞とは違い、真っ白な岩はすくなかったです。全体的に茶色っぽい灰色で表面に泥が固まっていたみたいに見えました。洞窟の中は、雨水で溶けたというのが納得できる、川が流れていました。小さな川でしたが水の色は透き通っていて綺麗だったです。味も雨水とほぼ変わりませんでした。この後訪れた大正洞と秋芳洞もですが、鍾乳洞内では鍾乳石を何かに見立てて説明する看板が多数存在します。(マリア像とかナイアガラの滝とか)大体は頑張ればそう見えなくもない程度のものでしたが、このなかにあったアケビ型の鍾乳石は、大きいアケビの実そのもののようでビックリしました。
景清洞内部
大正洞
景清洞探索を終え、9:20分から10分程バスに揺られて大正洞に到着。大正洞は景清洞と特徴は大きくは変わりません。大きくて10mほどの天井と1㎞強の道。変わるところとすれば、水が溜まっている場所が多かった点と全体的にすべすべしている点でしょうか。水がとても多く光があるところには苔がびっしりと生えていましたね。マスクの中や首筋に水が落ちてきたときにはビクッとしました
秋吉台
チャーターバスに乗り20分ほどでおっきな平原が見えてきました。秋吉台です!「写真で見たやつだ!」とすごく興奮しました。初めて生で観て予想以上だったのは、平原の大きさと、ドリーネの多さでした。秋吉台に出るまでずっと谷を走ってきたので、急に柔らかい緑が一面に広がったのはとても印象的でした。ドリーネというのは、プリンをスタンプしたようなすり鉢状の窪地です。大小さまざまなのもが体感100mに一つぐらいはありました。(僕が見たのは直径3m~10㎥ほどのもの)
秋吉台は大きな一つの石灰岩によってできていて、あのポコポコとした岩たちは実は石灰岩の一部が尖って露出しているだけです。その地質の関係で秋吉台は一つも川がありません。すべての雨水は鍾乳洞の中をくぐって行くのです。また、大きな平原は自然とこうなったわけではなく、約600年前から続く山焼きの結果です。今でも秋ごろには秋吉台1138haの全てを焼き払うという恒例行事として根付いています。
秋吉台の展望台についた後、僕らは自由行動ということで秋吉台の中を実際に歩いてみました。トノサマバッタなどのバッタが引くぐらいには多かったです。一歩進めば一匹は跳びます。山焼きは3時間ほどで表面の草のみを焼いていくため、地中に埋まったバッタの卵は残ってしまうのだそう。
秋吉台
1時間ほどのハイキングが終わり、昼食を食べに行きました。昼食は秋吉台付近では有名な、「観光会館安富屋」。出てきたのは『ゴボウめん』という温かいうどんでした。秋吉台はゴボウが名産ということで、ゴボウの粉を練りこんだ麺の上にさらに塩で味付けしたゴボウのから揚げ(?)を上に振りかけて楽しむ料理だそうです。ゴボウの味はあまりしませんでした。(そもそもゴボウの味って土の味のような気がします)
秋芳洞
午後になって秋芳洞に行きました。ここは山口県の観光地と調べたら最上位に上がる観光地で、人もとても多かったです。他2つと圧倒的に違うのはそのスケール。いまだ成長中で総延長は11.2kmを超え国内第2位を誇ります。天井は最大40mになり、轟音の響く川が流れています。そのせいで観光ルートは川の上に建てられた橋の上を歩いていくことになります。川は長い道のりで溶かしていった石灰を多分に含み、白濁してぬめぬめとしていました。
秋芳洞は洞窟の大きさだけでなく鍾乳石も大きいです。15mに届くほどの鍾乳石や、百枚皿という小さな鍾乳石の棚田のようなものなど綺麗にライトアップされた様々な鍾乳石を見ることができました。
秋芳洞 百枚皿
バスで一気に移動し新山口に到着。ここでホテルに荷物を置き、石炭を見に行きます。電車に乗って30分ほど行ったところにある常磐公園という公園が目的地です。その中にある石炭記念館というところで宇部の石炭の歴史を学びました。
石炭記念館
石炭記念館は3フロア構成の建物で、1フロア目は宇部炭坑で使われていた道具や採掘方法などの展示。2フロア目は炭坑の歴史的な流れや、石炭の現物資料、一般的な炭坑について。3フロア目は東見初炭鉱で使われていた竪坑櫓でつくられた高さ37mの展望台となっていて、その3階にある展望台から、ときわ湖や、山口宇部空港などを見ることができます。
個人的に面白かったのは、石炭の種類とその活用方法です。石炭でも、その炭化状態によって質が大きく変わり無煙炭、瀝青炭、亜瀝青炭、褐炭、亜炭、泥炭とランク順にならんでいます。大事にされるのは熱量でよいものとされるのは8000kcal/h以上のもので、一般的に日本では6500kcal/h付近がとれたそうです。端島炭坑(軍艦島)など日本の一部の炭坑では9200kcal/hが取れることも。そんな中で山口県では5500kcal/h程度のものしか取れなく、日本最低質の石炭だったそう…江戸時代の終わりごろから家庭用の木炭代わりとして使われていたということが書いてありました。
ときわ公園 石炭記念館
床波海岸散策(長生炭坑)
石炭記念館を出てそのまま海岸沿いへ30分程で床波海岸の南端に着きました。幅20mないぐらいの小さな海岸の向かって右側には隆起したような崖があり、そこを見てみると付加体にふさわしい地面の褶曲が見られました。その褶曲している層の中には石炭の層もあり、その層だけが極端に脆かったです。採った感じは、本当に木炭のような軽さで、若干濃いかな?程度。昔の人たちが木炭として使った理由が分かりました。
床波海岸の炭層
その後、近くにある長生炭坑の追悼碑を見に行きました。海岸から臨める海にはピーヤと呼ばれる排気・排水筒が海中に立っていました。この長生炭坑は1914年に開坑され、1942年に閉坑されてしまいました。その原因は1942年2月3日に発生した水没事故で、183名が亡くなりました。そのうち136名が朝鮮人労働者。追悼碑は、宇部緑橋協会内に事務所を持つ地元の市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会(刻む会)」が設置しました。
ピーヤ
新山口のホテルに帰り2日目は終わりました。